読書メモ2〜ヤクザとコミュニティの変遷史〜

「きつね目の男」で有名な論客・宮崎学による近代ヤクザ論。
これをある種のコミュニティ論(コミュニティの変遷の歴史)として読むと非常に優れていることが分かる。
ざっと整理しておこう。

ここでは便宜的に、近代という時代を、初期・中期・後期の三つに区分することにする。

時代区分 コミュニティの形式 主なシノギの形式 主な人材の供給源
1)初期近代*1 Gemeinschaft 労働者供給事業、芸能興行 下層労働者層
2)中期近代*2 Gemeinschaft⊂Gesellschaft 企業社会の「負のサーヴィス業」(民暴) 被差別部落在日コリアン社会
3)後期近代*3 Gesellschaft 金融/アウトソーシング(マフィア化) 金融市場/「下流社会

※GemeinschaftとGesellschaftは、本書のなかにおいて、前者は「共同社会」、後者は「利益社会」とされている。

初期近代におけるヤクザとは、地域共同体や下流労働者層のコミュニティに埋め込まれた存在であった。下流労働者を非熟練型職能集団として労働部屋に供給し、時には労働者の権利を雇い主に打ち出すことによって労働紛争を鎮める役割を果たしたり、祭礼の場や盛り場での小屋での芸能興行を行うことにより地域共同体への娯楽を供給行っていた。いわば、ヤクザは社会の周縁にいる存在者(下流労働者・芸能者)と社会との架け橋を渡していたのだ。
中期近代に入ると、高度経済成長も相俟って、コミュニティに変化が起こる。
本書から引用しよう。

 NHK放送世論調査所の「日本人の意識」調査は、高度経済成長を通じて起こり、1970年代にすっかり定着した社会意識の変化をとりわけ次の点に診ている。
 その調査によると、「職場の同僚とどんなつき合いをするのが望ましいか」という問いに対して、「なにかにつけ相談したり、助け合えるようなつき合い」という「全面的なつき合い」を挙げる人が、1973年で59.4%、78年で55.3%と過半数にのぼっており、これは、「隣近所の人とのつき合い」では「全面的つき合い」を挙げる人が30%ちょっとにとどまっているのと対照的である。調査結果を分析したNHK放送世論調査所は、この結果から、次の二つの点が示唆されているとしている。「第一は、地域性と共同体感情が成立の基礎となる『地域社会』に対する喪失感が、多くの人びとの間に広がっていることである。第二は、一機能集団として存在している職場が親せきという血縁集団、隣近所という地縁集団を越えて、まさに全面的人間関係の中心的な場としてきわめて大きな意味をもっているということである。

高度経済成長とともに地域共同体は崩壊し、企業が地域共同体の代替となった。それも、企業というGesellschaftに、「全面的なつきあい」というGemeinschaft的な側面がビルト・インされることによって。コミュニティの形態が、GemeinschaftからGemeinschaftがビルト・インされたGesellschaftへとシフトしたのである。
すると、ヤクザはどのように変化するのか。
高度経済成長とともに産業構造の変化が起こり、ヤクザの収益構造も当然変化を強いられることになる。技術革新により、生産過程の合理化が進み、従来の親方・子方制を基軸にした労務管理から、企業内において現場の労働者の管理を完全に掌握して、管理・指揮できるような管理体制が確立されたのである。ヤクザが得意としていた親方・子方制にもとづいた労働者供給事業は、もはや必要なくなってくるのである。
では、ヤクザの新しいシノギとはいかなるものか。それは、以下のような「民事介入暴力」へと変移していった。

株式上場会社、特に大企業の株主総会にからむもので、「総会屋」「会社ゴロ」などと呼ばれる。
強制融資など金融機関の融資にからむもので、「金融屋」などと呼ばれる。
企業倒産にからむもので、「整理屋」と呼ばれる。
交通事故などの示談にからむもので、「示談屋」と呼ばれる。
債権取立にからむもので、「取立屋」と呼ばれる。
手形にからむもので、「パクリ屋」「サルベージ屋」などと呼ばれる。
家屋の賃貸借にからむもので、「アパート屋」と呼ばれる。

Gemeinschaftがビルト・インされたGesellschaft、つまり企業社会の裏口から入り込んだヤクザは、民事において何か紛争が起こりそうなところには、さまざまなかたちで介入して、そこから手数料などの利益をえるというビジネスモデルへとシフトしていったのである。いわゆる「負のサーヴィス」を行っていたのだ。
ところで、政治哲学者の萱野稔人は、『カネと暴力の系譜学』で、「国家とヤクザ組織の同一性と差異」について興味深い考察をしている。
[rakuten:book:11968752:detail]

ヤクザがみかじめ料を徴収するのは、さまざまなトラブルや暴力から店を守るという名目においてである。その名目に同意するからこそ、自発的にみかじめ料を納める店も出てくるのだ。
他方で、国家のほうも同じように、暴力から民衆を保護し、社会の安全をまもるという名目で税を徴収する。民衆のおおくは国家による実力行使と税の徴収に政党をあたえている。なぜか。それは国家がかれらの安全を保障してくれると、かれら自身がみなしているからにほかならない。
ここにあるのは次のような共通の構造だ。
カネの徴収が暴力を背景にして強制になされる。カネを支払わないでおこうと思ったら、背後にある暴力に何らかのしかたで――たとえば逃げ隠れるなり、立ち向かうなり、懐柔するなりといったしかたで――対処せざるをえない。しかし服従してちゃんとカネを支払えば、逆に他の暴力から保護してくれる。この保護がカネの徴収とその背後にある暴力行使を正当化するのである。
『カネと暴力の系譜学』p34

国家もヤクザも暴力をふるう主体である*4。両者の違いは、国家だけが暴力を法(つまり、Gesellschaftのルール)にもとづいて行使し、カネを徴収できるということだ。

では、ヤクザのシノギが成立するための要件とはいかなるものか。それは、法(Gesellschaftのルール)に包摂し切れない領域があることである。つまり、GesellschaftのなかにビルトインされたGemeinschaftの周辺に生まれる「利権」があるかぎりヤクザのシノギは成立すると宮崎氏はいう。

こうしてみるとヤクザは、日本の近代社会におけるコミュニティに寄生しながらそのコミュニティのありかたに、ある意味寄与していたということがわかるであろう。そのコミュニティの変化を駆動していたのは、いうまでもなく、資本の論理である。つまり、ヤクザは資本の論理の変化に柔軟に対応しながら資本の論理に寄生しているのである。そして、それはヤクザがコミュニティから切り離されていくプロセスでもあったといえる。

では、後期近代におけるヤクザはどのようになるのか。
資本の論理が市場原理が前景化する新自由主義へ対応する形態へ変移し、Gemeinschaftがビルト・インされたGesellschaftの崩壊は完遂する(地域共同体、終身雇用制・年功序列型賃金・企業内組合を下にした日本的雇用慣行の終焉による企業共同体の崩壊により完全なものとなる)。のこるのは、剥き出しになった市場原理だけである。
このような趨勢のもと、市場原理をベースにした法整備がすすんでいく。「コンプライアンス」であるとか「コーポレートガバナンス」などはそれに対応したものであろう。企業社会におけるヤクザの利権は、Gesellschaftのルールによっなくなってしまったのである。
また1991年の暴力団対策法により、指定暴力団は、合法な行為であってもすべての行為が取り締まれるようになったことにより、ヤクザの社会基盤は完全になくなってしまった。

そうなると、合法的な活動をやっても「非犯罪的不当行為」として摘発されるのなら、非合法的な活動を強化して生きていくしかない、ということになる。
実際、「振り込め詐欺」などは、ヤクザが自分たちで直接振り込めさぎグループを結成することはほぼできないため、外部の振込み詐欺グループをコントロールし、上前をはねるという、「アウトソーシング型」へと変化しているという。自分の手を汚さずに巧妙に犯罪集団をコントロールすることによって非合法活動をおこなう形式へと変移してきているという。

本書は、資本の論理とヤクザとコミュニティのダイナミズムについて明快に書かれた良書であり、自分の研究にも多くの示唆を受け取ることができた。

*1:〜1960年頃

*2:〜1960年頃〜1970年代

*3:〜1980年代以降

*4:これは、マックス・ウェーバーの『職業としての政治』における有名な国家の定義を前提にしている。これはつまりこうだ。「国家とは、ある一定の領域の内部で――この領域という点が特徴なのだが――正当な暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である。」