読書メモ6〜愛するということ〜

だいぶあいてしまった。
ちょいといろいろとバタバタしてたもんで。。。

さて、最近読んで面白かった本。

愛するということ―「自分」を、そして「われわれ」を

愛するということ―「自分」を、そして「われわれ」を

ポスト・デリダ世代のフランスの哲学者・スティグレールの新刊。
ハイパー・インダストリの進展によって、人間のあり方が変わるという話。
スティグレールはハイパー・インダストリの進展によって、人間のナルシシズムが損なわれることによって、他者への愛が失われるといっている。
ここでスティグレールのいうナルシシズムとは、ラカンの「鏡像段階」の概念におけるナルシシズムのことである。これはつまりこうだ。人間の幼児期においては、いうまでもなく「自我」はまだ成立していない。それは、自己と他者の境界線が曖昧なイマジネールな状態である。このイマジネールな状態から脱するのは、鏡の中の自分を発見することによるとラカンは言う。そう、鏡という「自己ならざるもの」に写った「自己の模造」を「自己」であるという虚構を内面化することによって、自我が成立するのだ。つまり、鏡の中の自分という「自己ならざるもの」=他者を内面化することによって自我が成立する。ここにおいては、自己への愛=他者への愛という図式が成り立つ。
ITなどの技術によって駆動されるハイパー・インダストリの時代においては、もはや他者を内面化するというよりも、商品を内面化するという運動が人間の活動の大半を占めてしまうとスティグレールはいう。たしかに、ITの技術によるコミュニケーションツールによって、自分以外の他者との接触は二次的なものとなる(こうして私もブログを書いて二次的な他者へ向けて自己を発信しているのだが)。そのような事態は、他者への愛の枯渇を引き起こしてしまうということをスティグレールは鮮やかに描いている。

ところで、この本を読んでいて非常に面白かったのだが、いまいちしっくりこない面も否めない。
彼は主に、ハイパー・インダストリによる高度な消費社会を批判のターゲットにしているのだが、いわゆるフランスの68年代世代にあたる人たちの批判のターゲットの福祉国家や様々な規制が高度な消費社会に摩り替わっただけの議論であるような気がしてならない。いまのIT技術と金融が統合された実体経済の何百倍もの金融資産が世界中を巡っている現在の社会のあり方を描くのに、少し遠い気がしたのだがどうであろうか。