読書メモ3〜排除される側からみたノイズ〜

東京大学「ノイズ文化論」講義

東京大学「ノイズ文化論」講義

本書は、後期近代の社会における排除される〈ノイズ〉について文化論の視座から考察している。
犯罪学者のジョック・ヤングもいうように、後期近代の社会のありかたは「排除の社会」として位置づけられよう。
排除型社会―後期近代における犯罪・雇用・差異

それは、マイノリティとしての同性愛者・障碍者・被差別民、非正規労働者犯罪予備軍などを排除し、均一な空間へと向かう力学が作用する社会のあり方である。
この問題意識は、酒井隆史の『自由論』、渋谷望の『魂の労働』、鈴木謙介の『ウェブ社会の思想』や東浩紀『情報自由論』をはじめとする論者によって共有されている(いわゆる「セキュリティ化する社会」)。
自由論―現在性の系譜学
魂の労働―ネオリベラリズムの権力論
ウェブ社会の思想 〈遍在する私〉をどう生きるか (NHKブックス)

本来、多様であるはずの存在者である〈ノイズ〉を排除するということ。
それは、ひとことで言ってしまえば、権力が多様になったということであろうか。

自分自身の、自分の内部に存在する、名づけることのできない他者。
もともと、彼らの中にそういうものがありながら、しかし自分はミドルクラスである、お行儀がよい、ある一定のクラスに属している者だという前提がまずある。だけど自分の中にもなにか、おぞましい、名前をつけようのない過剰なものがあって、それを目の当たりにすると・・・・・、それが自分の視界に入ると、圧倒的に排除していこうとしてしまう。

その名前のつけようのない過剰なものを産出してしまう権力が多様に作用しているというわけだ。
それは、権力の執行が、従来権力(あるいは暴力といってもいいか?)単一的に独占していた国家から、市場へとシフトすることによって生じるといえるであろうか(権力の執行の権限は国家にあるが)。
いわゆるネオリベラリズムの時代の権力は、「名前のつけようのない過剰なもの」を市場原理の尺度によって多様に産出するものであろうか。

と、ここまで整理したが、それに尽きる本です。それまでです。
でも、この本の中で論じられている「ニュータウン」とか、オタクとかについては結構面白かったが。
というか、そもそも文化論として書かれた本を社会科学的にざっくり整理したからそうなるのか。
ということは、上記の整理も本来多様な文化のあり方についての言説を〈ノイズ〉として排除してしまっているということか。これは罠か?

とはいえ、後期近代の社会の文化論として多様な素材を豊かに語っている良書であることはたしかです。

この本の中で触れられているジョン・ケージの「4分33秒」の動画です。