読書メモ7〜民主主義について考える〜

民主主義の逆説

民主主義の逆説

自由と平等の両立不可能性
近代民主主義は、ふたつの異なる伝統の接合によって成立している。それは、人権の擁護、個人的自由の尊重という法の支配による自由主義の伝統と、平等・支配者と被支配者の一致・人民主権を主要な理念とする民主主義の伝統の接合だ。そして、この二つの伝統には必然的な関連はなく、歴史的接合の偶然性によるものにすぎない。

自由民主主義とは、二つの両立しえない論理が完全に和解することはありえないと理解する必要がある。自由(自由主義)と平等(民主主義)との調停は不可能であること。そこにおいては、様々な方法で交渉されうる緊張関係、絶えざる闘争が存在する。本書はその緊張関係、闘争/抗争の基軸にした「闘争的複数主義(agonistic pluralism)」という点から自由民主主義を再描写する試みである。

権力の除去不可能性
シャンタル・ムフは、『ポスト・マルクス主義と政治』において、いかなる社会的客観性も権力作用をつうじて構成されると主張している。それは、いかなる社会的客観性も究極的には政治的であり、その構成を統治する排除の作用の痕跡(「構成的外部)を示さなくてはならないことを意味する。そこにおいては、すべてのものは差異として構築され、あらゆる同一性は純粋に偶発的なものとなる。

そうなると、民主主義政治の主要な問題はいかにして権力を除去するかではなく、いかにして民主主義の諸価値にかなった権力を構成するかということが問題となる。除去不可能な抗争性という性質を否認し、普遍的で合理的な目標とすることこそ、民主主義への真の脅威であるという。それは、「中立性」のふりをしながら、排除という必然的な領野と形式を隠蔽する自由主義の思考に典型的なものである。

新自由主義オルタナティブ
特に本書の中で示唆的であったのが第5章の新自由主義へのオルタナティブについての論考である。

第三の道」の論者は「フレキシビリティ」が現代社会民主主義の目標であると謳いあげる。また、豊かな多国籍企業の利益は、失業者、シングルマザー、障害者の利害とめでたく和解され、社会的結合は、平等、連帯、市民権の効果的な行使をつうじてではなく、家族の強さ、道徳的価値の共有、義務の認識によって保障されうるという。

ここにおいて欠落しているのは、平等への闘争である。具体的にムフはその闘争について下記の三つの論点にまとめている。

1 合法的で効果的な労働時間の削減、および給与労働者間の積極的な再分配の政治。

2 アソシエーションによる数々の非営利活動の大きな発展のための助成。私的経済、公的経済に相互作用し、純粋市場経済とはことなる、真に複数主義的な経済の発生に寄与する。

3 無条件の最低収入(ベーシック・インカム)の配分によって、最貧困層と社会から排除された層のスティグマを終焉させること。最低(所得)水準に満たない者も、また他の収入、年齢、性別、夫婦の地位を問わない。いずれの場合も、このベーシック・インカムは補助的資金に加えて支給されるもので、その代替ではない。

市場セクターや国家セクターとともに、アソシエーションのセクターが重要な役割を果たすという。いわゆる「経済に埋め込まれた社会」から「社会に埋め込まれた経済」への転換を図る、コアエコノミーの重要性だ。


民主主義について深く考えさせられると同時に、新自由主義へのオルタナティブについて大きな示唆を受けた本。

研究メモ〜ボランティア活動とネオリベラリズムの共振について〜

ボランティア活動とネオリベラリズムの共振関係を再考する
Rethinking of the Problem of Complicity between Volunteer Activities and Neo-liberalism
仁平 典宏 Nihei Norihiro
東京大学 The University of Tokyo
キーワード ボランティア活動 ネオリベラリズム 共感困難な<他者> volunteers neo-liberalism "others"
社会学評論
Japanese sociological review
Vol.56, No.2(20050930) pp. 485-499
日本社会学ISSN:00215414

数々のネオリベラリズム批判についての論文を読んできたが、どうも生産的な議論がなされていないという気がしていたが、この論文はかなり示唆に富む生産的な論文である。

ボランティア論とボランティア批判の議論のすれ違い

■ボランティア論で示される価値的根拠=官僚制と専門職主義に彩られた福祉国家との対抗
→公的なサービスの画一性や非効率性、人びとのニーズを捉え切れない
→市民が参加していく必要がある

■ボランティア批判の価値的根拠=福祉国家以降のネオリベラリズムに対する批判
→ボランティア活動はネオリベラリズム的再編の作動条件を構成し、その活動の帰結もネオリベラリズムの帰結と合致する

ボランティア活動のネオリベラリズムの共振のポイント

[1]ボランティア活動はネオリベラリズム的再編の作動条件を構成する
(1)<社会>的諸制度が満たしてきたニーズの充足を可能とする代替的なシステムを創出すること
(2)市場化された前提となる自己統治可能かつ一定のモラルを保有した強い個人を創り出すこと
[2]ボランティア活動の帰結がネオリベラリズムの帰結と合致する
(1)再配分やリスクの集合的保障の機能が縮小することにより社会的格差の増大が生じ、同時に経済的貧困が個人の責任とされること
(2)社会不安の増大への対応として、セキュリティへの希求が生じること

[1](1)について:
ボランティアやNPOの活動が公的サービスの縮小によって財やサービスの不足を補うものとして活用され、同時にそれらの活動の活性化が、<社会>的諸制度解体の前提になる。
→ボランティア言説においてはミクロな対面レベルでの他者との連帯が強調される一方で、福祉国家が果たす、所得移転を通じた見知らぬ他者同士の<社会>的連帯の土台を切り崩す

[1](2)について:
ケア倫理の問題。ケア倫理は応答すべき/すべきでない声の線引きを特定の基準(例えば正義論的な基準)によって行わないが、すべての声に応答することは不可能なので、結果として既存の関係性が選択され、その外部が排除されうる。つまり、ケア倫理には、既存のネットワークを維持しようとする保守的な傾向がありうる。
→多様な選択が自明となった現在、上から確固とした行為のコードを注入するような道徳は困難。その代わり諸個人は、家族、職場、学校、余暇集団、近隣住民といったミクロの道徳圏と関係を取り結んでいくことを通して、自己の倫理を組み立てていく。つまり本来多様な倫理-政治が可能なはずの個人は、ミクロな道徳圏に関する自然で明白とされる語彙(「家族の大切さ」など)に依拠しつつ自己の倫理を組み立てていくことで統治へと回収されてしまう

[2](1)について:
参加の経済的格差の問題。社会参加可能な人は経済的なゆとりのある人に偏っている。
→市場能力の高い人が社会参加を経由して公的な決定の場に力を与えている。

[2](2)について:
多くのボランティア論で想定されるべき応答すべき他者とは、親密な他者のほか、ドミナントな道徳的基準によって共感可能とされるたしゃであり、実際ボランティアが盛んな領域は、本人の責任でなく偶有的に生じた困難に苦しんでいると認識される「弱者」としての他者支援の活動である。その一方で、自己責任(怠惰、やる気・モラルが無い、無謀など)の結果と表象され、時にわれわれに象徴的・直積的な危害を及ぼしうると表彰される<他者>に対しては、端的な排除で臨まれる。

ネオリベラリズムと共振しないボランティア活動は可能か(共振を回避するポイント)
[1](1)について:
福祉国家という枠組みを保持し活性化させる形で、ボランティアのプラス面を組み込んでいくにはどうすればいいかという問い。
→ボランティア活動が<社会>的諸制度の維持・強化に繋がる形で行われることによって共振を回避

[1](2)について:
アイデンティティを、外部に排除された、あるいは排除しきれず内部に矛盾として織り込まれた〈他者〉の声に向けて開く。
→「どの声に応えるべきか?」という正義論的な主題を導入しながら、ボランティア的実践を組み立てる。

[2](1)について:
参加の機会をすべての層に与えていく。
参加経験を社会的アドバンテージの増大につなげない(例えばボランティア活動経験を福祉受給の要件とする方向性は拒否される必要がある)。
→参加するボランティアが、参加できない/したくない人びとの声を――〈他者〉視される人びとの声すらも――充分な強度でで媒介できるか。〈他者〉を始めとする市民社会に現前しない人びととの連帯可能性が大きな賭金になる。

[2](2)について:
〈他者〉リスク要因として切断・排除するのではなく、〈社会〉的因果関係のなかで自己と〈他者〉を置きなおすことで、問題を〈社会〉的に解決していくという方向。
→自己と〈他者〉が位置づく〈社会〉的平面を暫定的に仮構することで、「共感」や「連帯」の資源としていく。

読書メモ6〜愛するということ〜

だいぶあいてしまった。
ちょいといろいろとバタバタしてたもんで。。。

さて、最近読んで面白かった本。

愛するということ―「自分」を、そして「われわれ」を

愛するということ―「自分」を、そして「われわれ」を

ポスト・デリダ世代のフランスの哲学者・スティグレールの新刊。
ハイパー・インダストリの進展によって、人間のあり方が変わるという話。
スティグレールはハイパー・インダストリの進展によって、人間のナルシシズムが損なわれることによって、他者への愛が失われるといっている。
ここでスティグレールのいうナルシシズムとは、ラカンの「鏡像段階」の概念におけるナルシシズムのことである。これはつまりこうだ。人間の幼児期においては、いうまでもなく「自我」はまだ成立していない。それは、自己と他者の境界線が曖昧なイマジネールな状態である。このイマジネールな状態から脱するのは、鏡の中の自分を発見することによるとラカンは言う。そう、鏡という「自己ならざるもの」に写った「自己の模造」を「自己」であるという虚構を内面化することによって、自我が成立するのだ。つまり、鏡の中の自分という「自己ならざるもの」=他者を内面化することによって自我が成立する。ここにおいては、自己への愛=他者への愛という図式が成り立つ。
ITなどの技術によって駆動されるハイパー・インダストリの時代においては、もはや他者を内面化するというよりも、商品を内面化するという運動が人間の活動の大半を占めてしまうとスティグレールはいう。たしかに、ITの技術によるコミュニケーションツールによって、自分以外の他者との接触は二次的なものとなる(こうして私もブログを書いて二次的な他者へ向けて自己を発信しているのだが)。そのような事態は、他者への愛の枯渇を引き起こしてしまうということをスティグレールは鮮やかに描いている。

ところで、この本を読んでいて非常に面白かったのだが、いまいちしっくりこない面も否めない。
彼は主に、ハイパー・インダストリによる高度な消費社会を批判のターゲットにしているのだが、いわゆるフランスの68年代世代にあたる人たちの批判のターゲットの福祉国家や様々な規制が高度な消費社会に摩り替わっただけの議論であるような気がしてならない。いまのIT技術と金融が統合された実体経済の何百倍もの金融資産が世界中を巡っている現在の社会のあり方を描くのに、少し遠い気がしたのだがどうであろうか。

読書メモ5〜複数の歴史と記憶の共有〜

やはりこれは非常に重要な本である。
ナショナリズムの問題と歴史認識の問題について考える上での必読書。

ここでは、子安氏の言説を中心に(それ以外の論考も非常に重要である)。
子安氏によると、1925年から40年代にいたる昭和前期という時代において、自国の精神的、文化的伝統を再構成していくとともに、「日本民族」という概念も成立したという。これについて少し詳しく書いておこう。
いわゆる満州事変(1931年)から日中戦争(1937年)、そして太平洋戦争(1941年)にいたる15年戦争において、日本を主導的国家としたアジアにおける新秩序の確立が、帝国としての日本の理念であり、目的であった。
その帝国としての日本によって再構成された「民族」概念、つまりアジアにおける指導的国家日本の優越的差異化としての「民族」概念が「日本民族」であったという。
そして、その「日本民族」は、王権神話に基づいて「天孫民族」として再構成される。天上の神との神話的系譜に連なる天皇の統治する「大日本を形成せる中心の民族」であり、天上の神の国から日本列島に移住したと神話が伝える民族が「天孫民族」であるという。
つまり、ここにおいて神話という「ありえなかった過去」を未来へと反復することによって「日本民族」というフィクショナルな概念を創造したのである。
さらに、フィクショナルな概念の創造はまだある。それはなにか。それは「他者性を排除した純粋日本語」である。
いわゆる日本に固有の言語としての「やまとことば」や「本来的な日本語」といった言語表象がそれである。
そもそも純粋な固有言語というものは人工的な言語学的抽象物でしかありえないと、子安氏はいう。では、人工的な言語的抽象物が捨象したものとはなにか。それは、「他者としての漢字」であり、「韓の痕跡」であるという。
漢字は、いわゆる「やまとことば」の音を補足するという見方が多々なされたいるが、漢字は東アジア諸地域の言語に残された「大いなる他者」としての中国文化の痕跡であり、それなくして自己の存立もないような、自己存立に決定的な意味をもった「他者」である。他者性の証跡とは、他者との交渉が、そして他者の受容がなされたことの痕跡なのである。
では、「韓の痕跡」はどうか。
子安氏は、「「日本」の成立=「韓」からの離脱の歴史」であるという。なぜか。「日本」と「天皇」が歴史上に成立してくるのは、白村江の敗戦によって日本が朝鮮から手を引き、政治的、軍事的な境界線を引くことによってであったという。多数の百済の亡命者とともに日本の軍勢は敗退し、日本は朝鮮半島との間に境界を設け、防備体制を敷くとともに国家の体制的な整備を急ぐことになる。この離脱過程を「韓」の痕跡としてとどめていくことになるが、「韓の痕跡」はその痕跡だけをとどめて、「日本」の成立の歴史から姿は消されていく。近代の日本人は意識から「韓」を消去することによって「日本人」となったという。

このように、近代化=「国民国家(ネーション・ステート」の成立史とは、自らの意識に刻印された複数の「他者」を消去する歴史であるといえるであろう。
特に近年、それが顕著なのは「靖国問題」である。子安氏は、「靖国問題」を日本帝国の歴史的事実と、現在の日本の一国主義としてのナショナリズムとの交差が生み出している問題としてとらえる。つまり、「アジア全体の国々と住民にとって重大な歴史的体験であった戦争を日本一国化するナショナリズムが国際間に作り出される問題であるという。アジアにおける複数の戦争の記憶を暴力的に捨象し、一国民の記憶へと回収するという暴力。一国の首相が靖国神社に参拝することによって、アジアの戦争の歴史と記憶を一国の歴史と記憶へと暴力的に回収することを正当化してしまうという問題。そこにおいて、歴史の暴力的で反倫理的な書き換えがおこなわれてしまう。

複数の歴史と記憶を他者と共有するということの必要性について考えさせられた本である。

読書メモ4〜革命的暴力集団の奈落〜

マングローブ―テロリストに乗っ取られたJR東日本の真実

マングローブ―テロリストに乗っ取られたJR東日本の真実

JR労組と革マルの問題についての驚愕の本。
ここまできていたとは知らなかった。
というよりもJRを使うのが怖くなった。
ホントに、KOEEEEEEE!

とこの本については単なる感想にとどめます。

昨日はいろいろと論文の資料を集めたので、まとまったところで研究メモでも書こうか。

読書メモ3〜排除される側からみたノイズ〜

東京大学「ノイズ文化論」講義

東京大学「ノイズ文化論」講義

本書は、後期近代の社会における排除される〈ノイズ〉について文化論の視座から考察している。
犯罪学者のジョック・ヤングもいうように、後期近代の社会のありかたは「排除の社会」として位置づけられよう。
排除型社会―後期近代における犯罪・雇用・差異

それは、マイノリティとしての同性愛者・障碍者・被差別民、非正規労働者犯罪予備軍などを排除し、均一な空間へと向かう力学が作用する社会のあり方である。
この問題意識は、酒井隆史の『自由論』、渋谷望の『魂の労働』、鈴木謙介の『ウェブ社会の思想』や東浩紀『情報自由論』をはじめとする論者によって共有されている(いわゆる「セキュリティ化する社会」)。
自由論―現在性の系譜学
魂の労働―ネオリベラリズムの権力論
ウェブ社会の思想 〈遍在する私〉をどう生きるか (NHKブックス)

本来、多様であるはずの存在者である〈ノイズ〉を排除するということ。
それは、ひとことで言ってしまえば、権力が多様になったということであろうか。

自分自身の、自分の内部に存在する、名づけることのできない他者。
もともと、彼らの中にそういうものがありながら、しかし自分はミドルクラスである、お行儀がよい、ある一定のクラスに属している者だという前提がまずある。だけど自分の中にもなにか、おぞましい、名前をつけようのない過剰なものがあって、それを目の当たりにすると・・・・・、それが自分の視界に入ると、圧倒的に排除していこうとしてしまう。

その名前のつけようのない過剰なものを産出してしまう権力が多様に作用しているというわけだ。
それは、権力の執行が、従来権力(あるいは暴力といってもいいか?)単一的に独占していた国家から、市場へとシフトすることによって生じるといえるであろうか(権力の執行の権限は国家にあるが)。
いわゆるネオリベラリズムの時代の権力は、「名前のつけようのない過剰なもの」を市場原理の尺度によって多様に産出するものであろうか。

と、ここまで整理したが、それに尽きる本です。それまでです。
でも、この本の中で論じられている「ニュータウン」とか、オタクとかについては結構面白かったが。
というか、そもそも文化論として書かれた本を社会科学的にざっくり整理したからそうなるのか。
ということは、上記の整理も本来多様な文化のあり方についての言説を〈ノイズ〉として排除してしまっているということか。これは罠か?

とはいえ、後期近代の社会の文化論として多様な素材を豊かに語っている良書であることはたしかです。

この本の中で触れられているジョン・ケージの「4分33秒」の動画です。

読書メモ2〜ヤクザとコミュニティの変遷史〜

「きつね目の男」で有名な論客・宮崎学による近代ヤクザ論。
これをある種のコミュニティ論(コミュニティの変遷の歴史)として読むと非常に優れていることが分かる。
ざっと整理しておこう。

ここでは便宜的に、近代という時代を、初期・中期・後期の三つに区分することにする。

時代区分 コミュニティの形式 主なシノギの形式 主な人材の供給源
1)初期近代*1 Gemeinschaft 労働者供給事業、芸能興行 下層労働者層
2)中期近代*2 Gemeinschaft⊂Gesellschaft 企業社会の「負のサーヴィス業」(民暴) 被差別部落在日コリアン社会
3)後期近代*3 Gesellschaft 金融/アウトソーシング(マフィア化) 金融市場/「下流社会

※GemeinschaftとGesellschaftは、本書のなかにおいて、前者は「共同社会」、後者は「利益社会」とされている。

初期近代におけるヤクザとは、地域共同体や下流労働者層のコミュニティに埋め込まれた存在であった。下流労働者を非熟練型職能集団として労働部屋に供給し、時には労働者の権利を雇い主に打ち出すことによって労働紛争を鎮める役割を果たしたり、祭礼の場や盛り場での小屋での芸能興行を行うことにより地域共同体への娯楽を供給行っていた。いわば、ヤクザは社会の周縁にいる存在者(下流労働者・芸能者)と社会との架け橋を渡していたのだ。
中期近代に入ると、高度経済成長も相俟って、コミュニティに変化が起こる。
本書から引用しよう。

 NHK放送世論調査所の「日本人の意識」調査は、高度経済成長を通じて起こり、1970年代にすっかり定着した社会意識の変化をとりわけ次の点に診ている。
 その調査によると、「職場の同僚とどんなつき合いをするのが望ましいか」という問いに対して、「なにかにつけ相談したり、助け合えるようなつき合い」という「全面的なつき合い」を挙げる人が、1973年で59.4%、78年で55.3%と過半数にのぼっており、これは、「隣近所の人とのつき合い」では「全面的つき合い」を挙げる人が30%ちょっとにとどまっているのと対照的である。調査結果を分析したNHK放送世論調査所は、この結果から、次の二つの点が示唆されているとしている。「第一は、地域性と共同体感情が成立の基礎となる『地域社会』に対する喪失感が、多くの人びとの間に広がっていることである。第二は、一機能集団として存在している職場が親せきという血縁集団、隣近所という地縁集団を越えて、まさに全面的人間関係の中心的な場としてきわめて大きな意味をもっているということである。

高度経済成長とともに地域共同体は崩壊し、企業が地域共同体の代替となった。それも、企業というGesellschaftに、「全面的なつきあい」というGemeinschaft的な側面がビルト・インされることによって。コミュニティの形態が、GemeinschaftからGemeinschaftがビルト・インされたGesellschaftへとシフトしたのである。
すると、ヤクザはどのように変化するのか。
高度経済成長とともに産業構造の変化が起こり、ヤクザの収益構造も当然変化を強いられることになる。技術革新により、生産過程の合理化が進み、従来の親方・子方制を基軸にした労務管理から、企業内において現場の労働者の管理を完全に掌握して、管理・指揮できるような管理体制が確立されたのである。ヤクザが得意としていた親方・子方制にもとづいた労働者供給事業は、もはや必要なくなってくるのである。
では、ヤクザの新しいシノギとはいかなるものか。それは、以下のような「民事介入暴力」へと変移していった。

株式上場会社、特に大企業の株主総会にからむもので、「総会屋」「会社ゴロ」などと呼ばれる。
強制融資など金融機関の融資にからむもので、「金融屋」などと呼ばれる。
企業倒産にからむもので、「整理屋」と呼ばれる。
交通事故などの示談にからむもので、「示談屋」と呼ばれる。
債権取立にからむもので、「取立屋」と呼ばれる。
手形にからむもので、「パクリ屋」「サルベージ屋」などと呼ばれる。
家屋の賃貸借にからむもので、「アパート屋」と呼ばれる。

Gemeinschaftがビルト・インされたGesellschaft、つまり企業社会の裏口から入り込んだヤクザは、民事において何か紛争が起こりそうなところには、さまざまなかたちで介入して、そこから手数料などの利益をえるというビジネスモデルへとシフトしていったのである。いわゆる「負のサーヴィス」を行っていたのだ。
ところで、政治哲学者の萱野稔人は、『カネと暴力の系譜学』で、「国家とヤクザ組織の同一性と差異」について興味深い考察をしている。
[rakuten:book:11968752:detail]

ヤクザがみかじめ料を徴収するのは、さまざまなトラブルや暴力から店を守るという名目においてである。その名目に同意するからこそ、自発的にみかじめ料を納める店も出てくるのだ。
他方で、国家のほうも同じように、暴力から民衆を保護し、社会の安全をまもるという名目で税を徴収する。民衆のおおくは国家による実力行使と税の徴収に政党をあたえている。なぜか。それは国家がかれらの安全を保障してくれると、かれら自身がみなしているからにほかならない。
ここにあるのは次のような共通の構造だ。
カネの徴収が暴力を背景にして強制になされる。カネを支払わないでおこうと思ったら、背後にある暴力に何らかのしかたで――たとえば逃げ隠れるなり、立ち向かうなり、懐柔するなりといったしかたで――対処せざるをえない。しかし服従してちゃんとカネを支払えば、逆に他の暴力から保護してくれる。この保護がカネの徴収とその背後にある暴力行使を正当化するのである。
『カネと暴力の系譜学』p34

国家もヤクザも暴力をふるう主体である*4。両者の違いは、国家だけが暴力を法(つまり、Gesellschaftのルール)にもとづいて行使し、カネを徴収できるということだ。

では、ヤクザのシノギが成立するための要件とはいかなるものか。それは、法(Gesellschaftのルール)に包摂し切れない領域があることである。つまり、GesellschaftのなかにビルトインされたGemeinschaftの周辺に生まれる「利権」があるかぎりヤクザのシノギは成立すると宮崎氏はいう。

こうしてみるとヤクザは、日本の近代社会におけるコミュニティに寄生しながらそのコミュニティのありかたに、ある意味寄与していたということがわかるであろう。そのコミュニティの変化を駆動していたのは、いうまでもなく、資本の論理である。つまり、ヤクザは資本の論理の変化に柔軟に対応しながら資本の論理に寄生しているのである。そして、それはヤクザがコミュニティから切り離されていくプロセスでもあったといえる。

では、後期近代におけるヤクザはどのようになるのか。
資本の論理が市場原理が前景化する新自由主義へ対応する形態へ変移し、Gemeinschaftがビルト・インされたGesellschaftの崩壊は完遂する(地域共同体、終身雇用制・年功序列型賃金・企業内組合を下にした日本的雇用慣行の終焉による企業共同体の崩壊により完全なものとなる)。のこるのは、剥き出しになった市場原理だけである。
このような趨勢のもと、市場原理をベースにした法整備がすすんでいく。「コンプライアンス」であるとか「コーポレートガバナンス」などはそれに対応したものであろう。企業社会におけるヤクザの利権は、Gesellschaftのルールによっなくなってしまったのである。
また1991年の暴力団対策法により、指定暴力団は、合法な行為であってもすべての行為が取り締まれるようになったことにより、ヤクザの社会基盤は完全になくなってしまった。

そうなると、合法的な活動をやっても「非犯罪的不当行為」として摘発されるのなら、非合法的な活動を強化して生きていくしかない、ということになる。
実際、「振り込め詐欺」などは、ヤクザが自分たちで直接振り込めさぎグループを結成することはほぼできないため、外部の振込み詐欺グループをコントロールし、上前をはねるという、「アウトソーシング型」へと変化しているという。自分の手を汚さずに巧妙に犯罪集団をコントロールすることによって非合法活動をおこなう形式へと変移してきているという。

本書は、資本の論理とヤクザとコミュニティのダイナミズムについて明快に書かれた良書であり、自分の研究にも多くの示唆を受け取ることができた。

*1:〜1960年頃

*2:〜1960年頃〜1970年代

*3:〜1980年代以降

*4:これは、マックス・ウェーバーの『職業としての政治』における有名な国家の定義を前提にしている。これはつまりこうだ。「国家とは、ある一定の領域の内部で――この領域という点が特徴なのだが――正当な暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である。」